昭和47年03月10日 月次祭



  (途中から)
 事が起きてくるであろうかと、思えばもう信心は留まっておる。これはまだ信心が足りぬのじゃと思え。一心の信心をしていけば、そこからおかげが受けられると。二、三日前の朝の御理解だったと思います。これ程信心するのにと。これ程信心するのにと。これ程の信心信心とはどういう事だろう。毎日毎日お参りをしよる。ね。それを普通では信心とこう思っている。ね。毎日参る所ではない朝晩信心をする。朝晩拝みよる朝も昼も晩も拝みよる。お花の水を替えたりお神酒を上げたり、ね。して拝んでおる。
 こがしこ拝んでお願いをしよるとに、どうしてこういう事が起きてくるであろうかというような、もう時には、信心ではないのだと。もう留まっておるのだと。ね。これはまあだ、信心が足りんのだと思うて、一心の信心をしていけば、そこからおかげが受けられると仰るほどしの信心とは、どういう事を、御道の信心では言うのであろうか。合楽では、そこん所を、どういう風に説かれておるのであろうか。信心とは。
 だからその信心そのものが、一つどういう事であるかという事を、すっきり頂かなければならん事が分かります。ただ参りよりゃ信心。拝みよりゃ信心というのではない。私は昨日、西日本新聞を見せていただいておりましたら、大きく広告が出ておりました。天の音楽と言う様な、あの貴乃花というお相撲さんが、大きく写ってなんか本なんです。その天の音楽というその、私はそれに何とはなしに引かれた。これは何か良さそうな本だなといいよりましたらもう昼から、高橋さんが買うて来て下さった。
 安い本ですな。手にとって見たところが、霊友会の創始者、何とかとみさんですかね。というもうこんなにそれこそ、童女と書いてありますが、もう大変大きく肥えられた、丁度言うならば、西岡さんを女にして様な感じの方でした。丸るいお顔でね。何とはなしに、有難そうな顔をしておられます。ね。この辺にもやはり支部があるそうですけれども、ま本部は東京でしょう。その話を昨日ま私はこうこ読ませて、もう読みたくなぁいという気がするんです。
 それはなぜかというともう、徹頭徹尾どこを開いても御霊様のお供養さえすれば、人間が幸せになるといったような意味の事が書いてある。これはまあ、人間の幸せというのではなくて、現在、悩んでおる問題が解決するとか、現在、苦しんでおる病気が治るとかという意味らしいんです。此の方がいわれる幸せというのは。ですからその病気が治ったから幸せになるというわけじゃないですね実際は。だから本当の幸せと言う意味じゃない。今もっておる人間の、その悩みというものが解決すると。
 と言うてほんならその一から十まで、そういう風に楽になるかというと、そうではないと思うのです。ね。だからこの例えば霊友会の方達の、ね。御霊様の供養さえすれば助かる。今日も私は箇条書きにこうまあ九十何箇条ですかね。その教のようなものがもう断片的に書いてあるから読みよい。それを読ませて頂いて一つも感動を伴わない。でそのう何です。ただその生い立ちの記というですかね。
 生まれられてからもう青年ですから、亡くなられたわけでしょうけれども、その亡くなられるまでの、すさまじいまでの修行精神ですね。これには打たれました。もうあのお子さんの時大変貧乏なお家に生まれて、小学校も五年生までしか行かれなかったと。そして叔父の家に女中に行ったと言う所から、苦労が始まっておる。もうやっぱ苦しから苦しいで、親の墓にお参りをする。
 そしてそん時親の墓の前でこう感じたのがですね、お家の水が飲みたいという、父がそういう事を願うとらせんだろうかというものを、しきりに心に響いたち言うのですね。それからというものは、何年間自分の家の自分の家の土瓶を下げて行って、毎日お水をお供えをしたち言う。もう私は本当に打たれましたね、その純粋さに。毎日毎日、お父さんのお墓に土瓶を下げては行く。そして五銭づつ十銭づつ貰って、二十銭貯まるとお線香を買うてお線香を供えたと。それが楽しみ。
 山に行ってはお花を取ってきて、お墓の前にこうやってすると、もう父が何かこう躍動して喜んどるようなものを、これに感じておられたらしいですね。そういう事が何年も続くところに、やはり御霊さんからのお頼みが在るようなことになってきて、ご自信だけではない。沢山な人までが助かるという事になったのではないでしょうか。ね。一番最後の所に新聞記者に対して、一問一答しておられるのでも、もう他にいう事はありません。と言うてから、叱るようにして言うておられます。ね。
 人間は御霊様の、あの先祖さえ供養さえ出来れば、人間な幸せになるごつなっとります。あぁたどっから生まれたですかち言うてある。木の股から生まれとらんでしょう。やはり親があって貴方が生まれておる。だからあなたは親を大事に、先祖を大事にしなければいけません。しかもその先祖というのは、先々万々というのである。千年も万年も前から、それ以前からの、ご先祖の供養をさせて貰うという事が、子供にとってはもう、それは義務だと。そうすれば、あぁたの病気は治るのだ。
 あぁたの難儀は解決するのだというふうに説いておられる。もう徹頭徹尾それなんです。ね。そしてほんなら助からなかったら、なら今日の御理解で言うとどういう事になるかというとです。これ程先祖様を大事にさせて貰いよるのに、どうしてこの様な事が起きたであろうかと言う様な事になって来た時には、是はまあだ先祖の御霊様の拝み方が足りぬのだ、供養が足りぬのだという事になりはせんでしょうかね。けれどもそのそれ、なおばってん最近、井から参って見えられた方達も、霊友会なんです。
 合楽は有難い有難いち言うて参って見えよっと、ご夫婦で。そした所がもう徒等を組んでやって見えましてね。「金光さんにどん参ると罰かぶる」ち言うて。それでそれが怖いから参られんち言うて、今参りを止めておられる方があります。結局はその何様を対象にして拝んでおるかというと、その日蓮上人様なんです。いわゆる南無妙法蓮華経を唱えながら一生懸命拝む。そういう風に大体私とも同じです、その勉強というものを、全然しておられませんから、そのただ素朴なね。
 ただ南無妙法蓮華経を唱えて、先祖に一生懸命に供養をするという事によって、ご自身も助かっておる。その代わりご自身もうすさまじいまでの、表行ですね、所謂ま火の行、水の行と言った様な事もなさっているのじゃないでしょうか。だからそう言う事になればですね。これは日蓮様のことは要らん、石の祠を拝ませて頂いても、病気ぐらいは治るのだ、その時の問題ぐらいは解決する。奇跡的な働きというものは、これはあるようになっとると、教祖様はそう仰っておられる。ね。
 そこでほんなら教祖様が又天地の親神様を、からのお伝えを私共にですこれ程信心するのに、どうしてこの様な事が起きてくるであろうかと思うたら、信心はもう留まっておる。これはまあだ、信心が足りぬのだから、一心と信心をしていけば、そこからおかげが受けられると仰る。金光教で言う、そこからのおかげとは、なら是から一心にさせて頂く信心とは、どういう信心をさせて頂いたら良いか。御霊様は供養ば一生懸命するだけでは、人間は向上しない。
 御霊様は喜ばれるけれどもかも知れんけれども、これは決して豊かになると言う事はないと思いますね。この辺に霊友会の一つの言うならば、より良い宗教から言うならば、盲点があるようですね。だからこの辺の所を、高橋さんに言うちから、教えてやったらどうじゃろかち。合楽ではこういう信心しよるが、いやあぁたが仰る事も、そら間違いがない。親を大事にするとかご先祖を、本当に大事にすると言う事はもう実に尊い事である。成程それでおかげも頂きましょうけれども、それだけのおかげじゃいかん。
 これ自身が助からにゃいけん、本当の意味で。ね。是自身と言うのは、心自体が助からなければいけない。ね。心が力を受けなければならない。ね。言うならばこの心というほど心、是はある事だけは皆んなが認めるでしょうけれども、どんなものかという事は分からんけれども、どういうものかというとね。この心というのはもう天地宇宙を包む程しに大きなものなんだ大体は。自分の心というのは。ね。
 かというとどんなに小さい所にでも入って行けれるのが心なのである。どう言う所にでも自分の神経というものが、こう浸透している心が。かというとね。天地宇宙をひと包みにする程しに自分の心が。これはお釈迦様が「天上天下唯我独尊」と仰ったのは、そういう意味だという事を、今日はある本で読ませて頂いた、昨日。はあ成程お釈迦様も素晴らしいが、教祖金光大神は尚更素晴らしいなあと思いますね。世界は和賀心にありと仰ったのはこれなんです。天地が自由になると仰るのはそれなんです。ね。
 だからそういう心をお互い頂きながらです。ね。たったこの位な事に、もう自分が縛られてしまって身動きが出来なくなっておるというのが、私共の実情ではなかろうかと。ね。そこでそういう偉大なもの、そういう尊いものを頂いておるという事を、そういう偉大なものにしてに、愈々足らしめる。偉大なものたら占めると言う所に、御道の信心があるのだ。ですからもう根本的に違いますですね。
 だから霊友会の方達は、なら吉井から参っておった方達はも毎日毎日それこそ今日死のうか、明日死のうかと言う様に悩み苦しんでおられる。波多野さんなんか熊谷さんなんかはもう、あの杉さんなんかはご近所でよく知っておられますよ。以前は素晴らしい方だったそうです。婦人会の役員かなんかなさって。だから気になって気になって堪らんから、毎日やっぱお届けなさっておられる「その方が助かられるように」ち言うてね。
 ある時なんかは、波多野さん行かれたらもう、どげん叩いたっちゃ起きなさらんげなもん。そりばそうに掛っとる倉庫の中に居りなさるじゃろと思うてから、その行きなさったと。そしたらもう顔を開けて顔見るなり、ワンワン泣いて「まあ、ちょいと上がって下さい」ち。今日はねもう愈々私の最後の日。今日はもう愈々死ぬる積りでおりましたら、あなたが来て下さったという事は。これは金光様のお助けじゃろと言うてから、まあ話を聞かれたという。
 もう部屋はカーテンを下ろしてしまって、真っ黒にしてしまって、ただお線香だけをもう、お線香の匂いでむんむん。その中でもう自殺をされる積りじゃったげな。もうそれこそ間一髪の所で波多野さんが行かれた訳なんです。ね、私は霊友会じゃ助からん。そうに御霊さんのご供養もなさったて。やっぱお金が随分掛るらしい、ご供養するのに。ね。そうでしょうね。先々万々年の御霊様を供養せんならんもんじゃけん。一人一円づつじゃったっちゃ、どうせ何万ぐらいかかりますよ。と思いますたいね。
 ところがそれでは自分が助からないという事。ね。そら助からないはずですよ。大体病気がないとじゃもん。心の病気じゃもん。ね。所謂まあ言うならばノイローゼという事かも知れませんよ。ね。毎日死のうごつして死のうごつしてたまらんと言う様な病気なんですから。それがまあおかげを頂いて、まあ霊友会様のおかげか、金光様のおかげか分からんけれども、最近ではだいぶん朗らかになられてね。まあ死のうて言う様なこつなんかは考えておられんような状態なんです。らしいんです。
 毎日杉さんがお届けがある。波多野さん熊谷さんからお願いがあるんです。もう本人は承知か承知か分からんのですけれどもね、陰で祈っている事で御座いますから。けれどもね。だからほんならその方に言うならば、どう言う事になるかというと、なら霊友会一本で行くならば、これはまだ信心が足りんのだと言う事は、どう言う事かと言うと、是はまあだお先祖様のご供養が足りぬのだと言う事になるのです。ね。
 そすとほんなら、金光様のご信心の場合は、是はまあだ信心が足りんのだというのは、拝みかたが足りんとか、参りかたが足りんとか、お供えのしようが足りんとかと言う様なものでは、さらさらないという事なのです。是はまあだ信心が足りんのだというのは、ね。私は今日思わせて貰うのにね。拝むと言う事はね、拝むと言う事は、拝まれる事だと。私は今ちょっと下がらせて頂いたんですよ。そしたらあの内田さんの孫の力君が、なんかしよったけど、ぴしゃっとごろごろごろと、廊下で頭を下げるんです。
 私も思わずぴしゃっと立ってから、こげんやって頭下げたんです。そんなもんなんですやはり。こっちが下げりゃ、あの向こうからも頭下げなさらなきゃにゃならんのです。これが拝むという事なんです。だからこちらが本当に拝んでおるという事はね。合掌して拝んでおるという事は、もうあぁたに一切を任せますという姿ですよねこれは。拝み片一方で拝みながらこうこする訳にはいかん。こう。ところが私がこげなふうな拝み方ばしよる、こうやって。ね。
 こう一生懸命拝みよるばってん、後ろで何か色々探しよる。「あれはあすこん、真ん中の引き出し入っとる」ちいうちから拝みよる。こういう拝み方では、やっぱいかんです。一心不乱に拝みよる。ね。でなかりゃ一心不乱に向こうから拝んじゃもらわれん。それをほんなら私はどういう風に言うかというとです、ね。「氏子が神様任せなら、神様がまた、氏子任せになるから」と仰せられるそれなんです。ね。合掌金光教で言う合掌する、拝むという事はね。お任せしますという事なんです。
 私は他んことは知らんけれども、まあ金光教ではそうだと私は思うです。ね。だからこうして形の上では拝みよるけれども、向こうのほうが頭を下げなさらんとするとです。まあだこちらの拝み方が足りんのだ、いや拝む姿勢が悪いのだと悟らにゃいかんと思うのですね。ただ自分の都合の良か、自分の都合の良かこつばっかり言うて、拝みよるとじゃったら、こら拝みよるという事になってないのです。それを本当におかげ頂いて有難いとか、勿体ないとかと言う様な心やらはですね。
 これは案外拝むことに通じますから、また神様も拝んで下さっておる。そういう時なんです。拝みながら有り難うならせて頂くのは。拝む時にも有難いというなら、拝まれておるから有難くなるのです。「氏子が神様任せなら、神様がまた氏子任せになる」と仰せられますからと言う。氏子任せになって下さろうとする。ね。いわゆる天地が私共の心次第になろうとして下さってある。それは私共の心が愈々偉大になって、大きゅうなってそれこそ天地も包ませて頂ける程しの心にならせて頂いて。
 任せるなら成程、天地が自由になりなさるだろうと、私は思うのです。御道で言うところの信心とは、私はそういう事だと思うのです。ね。そういう信心が成程なあまだまだ足りんのだなと分からせて頂く所からです。ね。そういう心の状態にならせて頂く為に様々な信心の稽古があるわけでございます。ね。昨日、一昨日、昨日でしたか。田主丸の小野先生たちが親子で、毎日参ってきます。
 試験が済んだもんじゃけん、もうぼやぁっとなってからもう、虚脱状態になってしもうとるけん、ちっと信心の親先生気合ば入れち下さいというわけなんです。んだから私がもうあの言いました。あの秀春君に。ね。時々私が気合ば入るるから、でそれでお話、私がしよりますと、こうこ身体でリズム取ったごたるふうな、ふうでまあリズムに乗ってお話聞きよるごたる風じゃもん。で、私がちょっとばかり大きか声でから、「お話ばしよるとこへ、そげな、こうこしてから」ち。
 私が言うたから目をパチッと開けちから、最近では私が顔見てからこうやって合点して、「あんたんげんお父さんが、そげなこつ」「もう、何十年参って来たっちゃ、私の話ば聞こうとせん。」だからもう、「あんたんげんお父さん達はもう、諦めとる。」ち。けれどもこん子供だけにはと私は、ね。あんたのお爺さんが、ね。大分教会でそれこそ一生御用された方なんだね。一生懸命丁度ここの久富先生のように一生御用された方。そういう例えば、長い信心を持っておられて、ね。
 例えばあの平尾の教会には、学生中あそこに下宿して、先生は学校に行ったぐらいに、初代の安武先生にご教導いただいて、おかげを頂いておる人なんです。そして愈々あの大学じゃない、大学を卒業して医者にならせて頂いて、愈々あの論文を出して医学博士にならせて頂くというその前後から、椛目におかげ頂くようになってきた。そしてその博士論文を出すためには、ここへもって見えたときに、私はもう小さいそれこそ医学、あのドイツ語で書いてあるのでしょうねあれはきっと。
 が私には分かるはずはないけれども、先生こことここばもういっぺん、検討しなおしなさいと言うて、そこを訂正して出して二十八歳で博士号を頂きました。それ以来というものはもう、それこそまあ事情のあればなんですけれども、降っても照ってもどこにおっても、もう電話ででもお届けをしてくるんです。皆さんのごつして毎日参ってくる。と言うて私の話とはとにかく、あんたが一緒に参ってくると分かろうがと。我が言うこつばっかり、ツーっと帰りなさろうがと。
 金光様のご信心はそげなものじゃなかて。けどもだから、私が「あんたげんお父さんは諦めとるばってん、秀春君僕だけはいっちょしみじみと先生の話を聞いてくれ」と私が。「まあ試験は受かったか、受からんか分からんけれど、まあその間の虚脱状態のときなら、一番良かじゃないか、信心の話も良く入ろう」と。それからおかげ頂いてから、もう昨日からちゃっと、都合のあのあ昨日は「今日は頂いていくはずじゃったけど、ちょっと忙しいから」といって訳言うて帰った。
 で今日はまあ二人で一生懸命ご理解を頂いてから、帰っております。ね。それが昨日、来てからの話なんです。ね。丁度試験の十日ばっかり前に、参ってきたときに秀春君、偉い一生懸命で申しますことはね。物理の本のこれはこげな大きな本ですね。そしてこんなに厚い。もう小さい字がぎっしり、その書いてある本なんです。ね。ぼくはこれが一番苦手だったとこう。ほっでもうどこばどう勉強していいか見当が着かん。
 先生これから四問出るのですから四問、四ページの所に、こうどこどこどこという事を教えて下さい。ともう一生懸命でしたね。そるけん「ああ、そうな」と私も言いまして、すぐ私は神様にお願いをさして頂いて、毎朝、朝の教話を頂くような要領で、五枚だけ私が、こう紙を挟んでやりました。試験が済んで帰って参ります時に、秀春君が二人でやってきて「親先生、親先生から教えて頂いて所から出ました」ち、試験が。そりゃそれまでしか聞かなかった私は。
 所が昨日親が来てから、色々話のなかからです。そうして頂きながらね、勉強しとらじゃったち言うです。ね。それは何故かというとね、とてもこげな所から常識から言うて出る筈は無かったと言う所だったそうです。それが今までかって、こげん所が出た事が無かったそうです。だから勉強しなかった。ただ一ページだけしとったら、そこだけはだからおかげ頂いた。こげんところが出る筈はないと言うて勉強しなかったと、こう言うのです。私は思うんですけれどね。
 例えば出るとか出らないとか、ね。そういう事ではなくて、金光様のご信心はどういう事が尊いかと。ね。ある時神様が教祖様に、今年は麦を干さずに生麦をそのまま俵に入れよと仰った。ね。だからそれを俵に入れられた。ね。隣の久作さんも真似さえしときゃ良かと思うてから入れられた。ところがもうおびただしい、どこからどこまで虫が続くというほどしの虫が這い出すようになった。便利が良かですもんね。毎日毎日乾燥させて、乾燥しきってしもうたのを俵に詰めるというのが常識なんです。
 だから便利が良いから、そげんしたというのではない。教祖様の場合。もう一年兵糧(びょうろ)、腐らかさしていただいても、神様がそう仰るのだから、させて頂いただけのこと。結果が良いとか悪いとかはない。久作さんが見えてから、ぶんさんあんたん所の米はどう、麦はどうかと言うて見えたところが、ね。それこそ一匹の虫もついていなかったとこう言う。ね。その事を神様にお届けをされると、形の真似は出来ても、心の真似が出来んからと仰った。
 だからね干さんでからしまわれるなら、こげん便利な事はなか。便利が良いからそうするのであるという。ね。ここは試験にもこげなとこは出る筈はないから、勉強せんとこう言うておる。よし出ろうが出るまいが常識から言うたら、出らんごとあるけれどもです。親先生がここを勉強しとけと仰ったんだから、勉強するという気になる。その素直な心でおかげが受けられるんだ。私もほんとに皆さんも、ここんところが分かって頂かにゃいかんと思うですね。その事で自分の思う通りになる、ならんじゃないです。
 ただ親先生が右と仰るから、人は笑われよるばってん、右を向いとるのであります。ね。金光様の信心ちゃ、もうあげんぼうくるけんで好かん。例えば信心のあるものが言われてもです。ね。神様からは笑われてはならんといういき方を堅持させて頂く所から、ね。神様が、ね。人が笑われよったっちゃ、向こうを向いとるとを見てから、それこそ後姿を拝むごとあろうと思うと、神様のお心から言うたら。
 もう何を言うても「はい」、何を言うても「はい、そうですかと」素直にそれを聞くその姿がです。そう言う所が神様任せになるという事です。親先生にお願いしたばってん、こうやったけんで、もう自分の良かごつせにゃ。そしてどんこん出来んん時だけ、頼まにゃという。そういう信心からは、金光様のご信心は生まれてこないと。私は、その霊友会のそれを見せていただいてです。
 もう本当に金光様のご信心、いや合楽で今私が申しておる事の素晴らしい事を、愈々素晴らしい事だと思わせて頂くのです。ね。けれどもどういう教を素晴らしい教えを頂いても、例えば聞いておりましても、それを守らなかったならばです。それは霊友会よりも、まだ、低級だと言われても仕方がないでしょうもん。お参りをして一生懸命お願いをするとは、お取次ぎを頂いてお願いをして、おかげを頂くだけち言うなら、こげな低級な信心があるもんですか。
 お取次ぎを頂いたら、またお取次ぎを願ったら、お取次ぎを頂いて帰ると言う所に、御道の信心の値打ちがあるとですよ。本当の事を教えて頂いて帰られる。その本当な事を、自分の身に着けていくという事なんです。だからそこの所がもしされなかったとするならば、本当に程度が低いなと、他所の宗教を笑う段じゃない。金光教はそれ以下だという事。霊友会のほんなら方達は、一生懸命拝めと仰る。
 一生懸命拝んでござる。一生懸命、先祖を大事にせろと言われりゃ一生懸命色々言われる通りにして、先祖の供養をしてござる。ならばまあだこれのほうがいいじゃないですか。ね。金光様のご信心をさせて頂いてです。段々私共の心が、ね。所謂和賀心から和賀心を求めていく信心になりゃ、親も大事にしなければおられん、先祖も大事にしなければおられないほどしの、心の状態が頂けるのが金光様のご信心なんです。ね。そういう心の状態をです。頂かせて頂くという事が、私が今日言う、ね。
 これほど信心するのにという信心とは、ね。そういう信心を言うのだと言う訳であります。ね。私が拝まして頂きよりゃ、神様も私を拝んでござるという実感なんです。拝み拝まれる仲が生まれてくる。その拝まれている印が、自分の心のどこから湧いてくるか分からん信心の喜びなんです。そういう時には、神様から拝まれておる時なんです。金光様の信心は、どこまでも、拝み拝まれる仲というものが、いよいよ深いものになっていかなければならんのです。ね。
 ただ今までのごつカーッとして拝むという事だけじゃ、そりゃ拝まんよりか、やっぱおかげ頂きまもんね。拝むとやっぱおかげ頂く。けれどもそれだけがしんもう。金光様のご信心だと言うと、ほんならさっきから霊友会を例にとって、大変申し訳ないですけれども、ご本を私が読ませて頂いてから思うのです。これは他の宗教も、もうまあいうならば、五十歩百歩でしょうね。愈々肝心要の所に焦点を置いての信心というのじゃないと言う事なんです。病気が治ればそれで良い。
 いやむしろ病気が治ったり、災難よけてん何てんち言う神はもう、低級だとまで言うておる大宗教が、現在ではあるということなんです。おかげの受けられない宗教なんて、もう、本当に、もうこりゃ、死んだ宗教とおんなじなんです。ね。それよりか、まだまだ、霊友会あたりの、先祖の供養すりゃ、助かるといったような、素朴な信心のほうが、まだ、いくらかましです。ね。
 けどもこれではね、おかげの受けられない場合、はあまあだ先祖様の供養が足らんとと言うて、供養したばっかりでこっちのほうの供養をせんもんじゃから、こっちはいつまっでん助からんね。だからせめて今日私が、皆さんに聞いて頂いたような事ぐらいは、実感として頂かれて、ね。この位な事は誰にでも説明が出来る位な信心は、本当に頂いて頂きたいと思うのですけれどね。金光様の信心の素晴らしい。なら例えば今日の御理解のような内容を持ってですね。聞いて頂きたい。
 あるお願いに参ってきた方が、もうちょっと今日見たところがそのお供えがしちゃなかもん。そして鯛とお酒とこう持ってから、お願いに見えました。ね。そりきん「あら、どうしたの」ち、久富先生に言うたら「あら」ち言うて、冷蔵庫に入れたなありにしてあったらしい。「相済まんことで、せっかく真心持って見えとるとに。」ね。丁度そのお取次ぎをさして頂きよる、その前に野口つぁん達が、町田さんたち親子三人、野口つぁんの嫁ごとあの輝夫さんと、五人連れで参ってきておる。
 今朝から、お母さんからお届けがあっちょったけれども、こげぇんおかげになるじゃろとは思わなかった。そりが丁度そういうお願いであったから、丁度ここでテープを聞きよりましたから、「ほらあすけ赤ちゃんば抱っこしてから、こうお話ば頂きよろがの。」「あの人がそげんじゃった。」ち。もう本当に幾らお神酒を着けても、お神酒を着けても顔がこう、ね。あの言うならま皮膚科にいかなけ、の病院に行かなければとてもあん金光様も是だけは出来まいち言う位に、思う位にあった訳ですね。
 嫁ごとしては。お婆ちゃんが言いなさるきんばってん、そるきんまあ先生は決して医者に行っちゃならんとか、どうかとは仰るわけじゃないから、けれどもね。神様で信心によっておかげを受けるという事は、もう尊いという事は何十年の信心で、ようお婆ちゃんが知っとるけど嫁がまだ若いから、そんな訳にはいかんのですよ。ね。そこでそんならばあの今日一日一つ、あの待って今日一日あんたどんが、いっちょお願いをしてそして明日、行くなら行かんのと言うて。
 またお婆ちゃんが一生懸命、金光様金光様で、お神酒さんを顔に着けてやった。そしたら今朝からねもうそれこそ、きんきん孫じゅっちゃ、こげんとじゃろかと言うごと、もうそれこそキラキラもうその綺麗さ綺麗さ、今まで私はあのあそこん赤ちゃんば、こげん綺麗な赤ちゃんば、今日始めて見ました。是がもうそのを取った様に綺麗になってしまったわけです。ほっでもうそん嫁ごが、びっくりしてしもうてからですね。今日はそのお礼に、赤ちゃんを連れて出てきておると。
 だからちょいとあの赤ちゃんば見てきなさい。あのそげなふうでおかげ頂いたっじゃからと言うて、まあ実際実物を見せてから、話した事でした。ね。ならこう言う様な働きがですね。もうそれこそま言うなら、限りがありませんですよね、合楽では。けれどもほんならこういうその、一つのおかげのケースと言った様なものがね、神様が何を願い何を求めておられるからこそ、そういうおかげを下さるかという事なんですよ。ね。
 そげん嫁ごがもう心配嫁ごが心配、嫁ごの息子の夫婦が、ね。心配して医者に連れちかにゃんちいうごと、心配する前におかげ下さりゃ、まあだ良かごたるとあるでしょう。けども心配もさせてです。ね。心配する心で神様へ向かわせるという事なんです。ね。そしてです。ほんとに医者も良かろうけれども、ね。神様のおかげでおかげを頂くのはと言いよる所へ、丁度久富先生がここへこう見えたけんで、「この久富先生方もそげんじゃったつよ。」ち。あそこの一番下の子供も今年は大学に行きます。
 あの子供がこまか時にもうこらまた違う、もうペンでかさ八のこうなっとっと。はっはは(一同笑い)ほれがねえ、もうお母さんがおんぶしてから参って来る訳ですよ。もうようならん。そすと途中でね、もうちょいと赤ちゃん可愛そうな、どこにどげな良か薬があるばのどこの医者どんな、どげんばのと言われるばってん。迷わず一生懸命、合楽に参って来よった。
 所がもうお父さんが、金光様金光様ちいうけん、一生懸命やったばってん、もう、愈々いかんち言う、もう今日どうでんこうでん帰り掛けに、医者どんに寄らんなんち言うごたる所まで、お母さんが追い込まれたわけです。ね。そこんところを、久富先生のお取次ぎで、もう、それこそ、面をはぐようにおかげを頂いたという事実を、また、それに話した。もうその子はもうそれこそ、もう小がさひとつ、もう女の子に欲しいごたっです。もう、つるつるしとっですそれ以来。ね。
 所謂心から根からのおかげを頂くからなのですよ。注射でするのは上から押さえるだけ。膏薬を着けるのは、ちょっとその場が直るだけのこと。と言った様なものではなくてね。もう芯から根から出させて頂いておるという事も有難い。ね。そういう例えばほんならおかげをね、神様がどう言う訳にそのギリギリの所までですたいね。参らにゃおられん所まで、追い詰めなさるかと言った様な事を、思わせて頂く時にです。ね。
 とにかく神を信じさせたい、ね。本当に神様を有難いと思わせたい。そしてうんとお供えばさするち言うこっじゃ決してないですよ。そこんにきを間違えるといかん。神様を信じさせたいの一念なんです。ね。それが信心なんです。信心信心とは、ね。いわゆる神様を信じて疑わないという、そういう事がなら二回、三回じゃまだまだでしょう。けどもそれが、段々繰り返し繰り返しさして頂いておるうちに、この神様のおかげを頂いていけばなるほど、ね。金光様合楽に参る方達が、もう何十年と言うて、ね。
 お薬も頂かれんという、そのわけが分かる。私も昨日一昨日、歯医者にやらせて頂いて風邪の具合の悪から、だから歯だけ持ってきてくれちいうごつじゃったばってん。もう気分が良かったけんで、ここ身体ごと一緒行ってしてもらったんですよ。そしたら「風邪が悪かったそうですね」ち。「薬は何をお上がりなりよりますか」ち。「いいえもうようなりましたけん飲みません。」「ようなりましたけん飲みません」ち言うちから「ようなったけん、あんた飲みなさらにゃいかんじゃないですか。」ち言われた。
 けれども、私は、三日間でおかげ頂いた。「とても、そのあぁたの症状ならば、十日間な世話なし。」ち。大体今のこのお医者さんの言われるとが、ね。けれどもその、それこそ、私どんがお薬飲むともう、効きすぎて、どんこん出来んです、大体が普通が全然飲んどらんもんじゃけ。かえって弊害があるわけですからね。ですからもう本当に、お神酒さんでおかげが頂けれる、御神米でおかげが受けられると、もうそこんところを子供の時から、信ずる稽古をしっかりさせて頂いておる。
 信心とはそれです。信ずる心なんです。ね。だから信ずる心だけではいかん。これは信心であり真心がまだ足りん。信心とはねそして神心、神心に近付いていくというのが、金光様のご信心。それをまたの言葉で言うと和賀心。和らぎ喜ぶ心という事を、求めての信心。そこには私自身が助かるだけではなくて、この病気も治るだろう。こういう難儀な問題も解決するだろう。いやどういう事態に立ち至っても、この神様さえ逃さなかったら、おかげが受けられるという安心の生活が約束されるわけです。
 だからこの心が愈々大きゅう成って行くはずなんです。心というものはもう限りなく大きいんだけれども、私共の心で小さくしてしまって、自分を窮屈にして身動きが出来んようになってしまうと言う様な信心では駄目なのです。ね。今日は霊友会を例にまあこれは、霊友会他の宗教といいたいのですけれどもね。霊友会のことを、昨日今日その本を読ませて頂いてからですたい、ね。
 本当に私がおかげを頂いて、だからそういう信心を、本当に、まあ本当に素晴らしいです。沢山の人が助かっておられると言う事は素晴らしいけれども、その助かりは、本当の助かりじゃ、またありませんよ。もっとより本当の助かりの道がありますよ。合楽ではこういう事をの運動をしておりますよと、あらゆる例えば宗教の本部に持って行って、行けれるくらいな、私はおかげを頂きたいというのが、宗教革命なんです。
 つぶすというのじゃないです。それに欠けておるところを、こうここを金光大神の、ここん所を頂きなさらないけんという事を、私は教えたい。けれどもね。私は高橋さんに、そげん言うてから手紙を出そうかち言いましたけど、これは、私だけではまだ心もとない。合楽におかげ頂いておる、皆さんがそういうおかげを頂いたときにこういう手本、見本がありますという、商品見本がまちっと出来なければ。
 宗教革命まではいけんごたる感じがするんです。ね。ですから皆さんがどうでもおかげを頂かせて所謂、これを中心にしての信心から愈々、ね。有難い勿体ないと言うておれば、神様もまた有難い勿体ないとして交流する。いわゆる、神様を拝みよるだけではない、神様からまた拝まれておる私というものをです、感じさせていただけるような日常生活をいただきたいと、私は思うです。
   どうぞ。